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Sunday, August 21, 2011

親友の死を悼んで

大学時代での時間を長く過ごした親友に今日、最後のお別れを告げてきた。この日記は、悲しみに打ちひしがれるようなこの瞬間を風化させないように刻んでおくとともに、生前の彼に対しての思い出をずっと残すために書く。

彼とは東大に入ってから音楽部で一緒になり、4年間ものあいだ同じトップ テナーとして歌ってきた。本郷に来てからは学部での所属も同じになって、部活と学業ともに一緒だった唯一の友人だった。また、高校のときはお互いに水泳を本気でやっていたこともあって、放課後には一緒に泳ぎに行くこともあったほどである。

性格面では、僕とはかなり対称的で、普段はかなりおとなしくて、でもかなり理路整然と物事を言うタイプだった。それでも二人でご飯を食べに行くときには、よく親身になって話を聞いてくれる良き相談役だった。人前では空気みたいに存在感は薄いけど、でもそばに居てくれないとすごく寂しいという不思議な人だった。

知らせを聞いたのは木曜の夜で、部活時代の友人からだった。最初は言っていることが理解できず、次には悪い冗談を言っているのかと思うほどに、まったく受け入れがたい事実だった。よっぽど冗談であってくれたほうが幸いだったのだが。しかし昨晩、お通夜に参加してからだんだん実感がわいてきて、非常につらかった。お通夜で参列者全員がお香を焚き終わってから、音楽部が急に呼ばれて歌うことになった時点が限界だった。まさか彼の魂のために指揮をする日が来ることなど夢にすら思わなかったのに。振り終わって席に戻った途端、すべてがこらえ切れなくなって、涙を流すほかなす術がなかった。胸が裂けそうだった。

そして今日、葬儀が営まれた。お坊さんが長いお経を唱えている間、茫然自失で何も考えられなかった。ただ彼のために祈ることが精いっぱいで、気が付いたらお別れの時が迫っていた。出棺前の最後の対面になって、親族の方々が花を添えて、僕もそれに従った。顔を向き合わせて別れを言ったのは、それが最後である。彼の顔をずっと見つめていたかったのに、お別れを言うほかないとは本当に残酷である。ご両親のお気遣いで、棺を一緒に閉じさせてくれて、車まで運ばせてもらった。棺が手から離れる瞬間はまさに「待って、行かないで」という言葉が今にも出そうなほどに名残惜しかった。

今の僕にできることは、彼と一緒に過ごした時間を思い返すことである。楽しかったころの記憶を思い返しては、それが余計に悲しくさせるのだが。また生前の彼にとって、僕は彼を楽しませるだけの良き友人であったのかどうか、非常に気がかりでならない。僕が彼のことをとても良い親友だと思っていたように、彼が僕のことを親友だと思ってくれていたことを願うばかりである。永遠に安らかに眠ってくれ。

彼は去ってしまったが、僕の元から彼の記憶が去ることはない。

Pray for my friend

Today, I said forever farewell to one of my best friends during the university life. He and me entered University of Tokyo in 2007 spring and joined the chorus club. We there sung for the same part, 1st tenor and later we both majored computer science as well. Since we were swimmers during high school age, we usually went to sports center nearby our building in afternoon without classes. He was the only friend for me who belonged to the same club and the same major, spending the longest time together.

About his character, he was totally unlike me, always quiet and quite well organized about everything. Every time I have difficult options in my life, he often gave me some ways out. Literally, he was just like air; he never want to show off himself in public, but at the same time, I couldn’t do without him.

On Thursday night, I first heard the news from my chorus buddy that he had passed away in the early morning but indeed I could hardly believe it then. I even thought the phone call was just a very bad joke. I wanted it to be. But yesterday, participating in viewing ceremony of the deceased, his death gradually became to the reality. Approaching the last of the ceremony, our chorus members were asked to sing one and I had to conduct the school song. I’ve never imagined that the day would come to conduct a chorus praying for his soul. After the song finished, I eventually couldn’t stand the situation and burst into tears. I was totally at a loss myself.

And finally today, his funeral took place. Buddhist priest came and mumbled long sutra. All the participants silently prayed for several times hoping for his peaceful sleep. At the last moment, I mean literally the last moment, his family put flowers beside him in coffin and I followed them. That was when I had to say goodbye to him in face to face. Although I was anxious to stay beside him for long, it’s really cruel that I had nothing to do other than say farewell.

Now I think back the time I spent with him. Many pieces of fun memory passed by in my mind and that deeply grieved me. I’m also wondering whether I really was a good friend for him who made him happy when alive. I strongly hope that he had thought of me as the best friend as I do. Let me pray for his peaceful sleep forever.

He is no longer beside me, but his memory always is.

Sunday, August 7, 2011

8月6日

66 年前に広島に原爆が投下された日。成長するにつれて毎年すこしずつ、何か思うところが増えている気がする。今の僕よりも若いときに被爆した祖父は、すでに 80 代半ば。日頃から近くで面倒をみるなか、最近とみに老いているように思えてきて、哀れささえ感じてしまう。そんな中、原爆によって引き起こされた惨劇を風化させないように、そして同じ悲劇が招かれることのないように、祖父がした経験、抱いた心情というものを毎年 8 月 6 日に噛みしめなおさなくてはいけないと思うのである。そして何より、それをきっかけとして、自己の倫理観、人道の捉え方、社会問題などを考察するきっかけにしようと思う。

中学の頃、はじめて祖父から被爆体験について克明に語ってもらった。あのときの衝撃は今でも忘れられない記憶だ。そのとき、自分が聞いていることが物語の中の単なる悪夢であってほしいと強く願っていたのである。18歳の学生だった祖父は爆風によって吹き飛ばされ、喉に大きな火傷を負ったそうだが、救護室で手当てを受けられただけ幸運だった。それでも多くの人が正気を失いながら蒸発していくように息絶えるのを見るのは身を切られるほどの苦痛だったに違いない。全身にやけどを負った人々が水を求めて川へ飛び込み、次々と息絶えていく光景は、阿鼻叫喚の様相を呈していただろう。僕は聞きながら憎悪や悲愴、そして絶望などの感情を覚えたが、祖父の口調は落ち着いて淡々としていたのは意外だった。今になってみれば、その境遇を少しは理解できる気がする。着実に記憶を再生しているときの力強さのようなものだったのだろう。

いまだに納得できないこととして、原爆の投下を正当化しようとする「原爆投下によって戦争が終結したことにより、多くの命が絶たれるのを防ぐことができた」という意見。このようなことが言えるのは、原爆が炸裂した後の悲劇の重みが理解できないからである。何より、終戦を迎えた後も、放射線障害によって延々と人々を苦しめたことは人道に適うはずがなく、戦争を終わらせるのに有り余る暴力だったと言わざるを得ない。だからもとより先の意見は、暴力的なまでの事実の単純化と、それに起因する潜在的な矛盾を孕んでいると僕は思う。そもそも人を殺傷する行為を正当化しようとするほうが間違っているだろう。戦争という非情な状況下の一つの事実を正当化しようとする試みなど意味をなさない。

さて今年は、福島第一原発の事故によって、原子力エネルギーの利用そのものについて再考せざるを得ない状況になっているのだが、いささかこのことについては僕なりの明確なスタンスを示す意見がまとまらずにいる。原子力の平和利用ということについては今まで賛成してきたのであるが、その理由は放射線の影響を除けば、温室効果ガスなどによる環境負荷がほとんどないからである。しかし実際には、事故の起きる確率は過小評価されていたようだし、事故が起きた時の被害範囲も想定が甘かった。ただし少しは自然科学に関する知識を大学にくるまで身につけてきた立場として、リスクが完全に 0 になるシステムなど理論的には開発しえないことを考えると、他のエネルギー手段との間でリスクと環境負荷を定量的に評価比較することなしに、原発の存在を頭ごなしに全否定する気にはなれない。しかしながら当然、(原爆における放射線障害が存在していたことを踏まえて) 現時点で社会に飛散している放射線の影響を無視するわけにはいかない。もとより、世論を鑑みれば原発を意気揚揚と肯定することなどできるはずがない。

ここから導かれる結論は、どの方法をとっても何かしらの問題が存在することになってしまうという事実だ。既存のエネルギーでは環境負荷が大きすぎてこの先 30 年と持たないだろう。石油が尽きようものなら、各国同士がエネルギーを巡って戦う第 3 次世界大戦が起きかねない。これは倒れるまで戦い続ける消耗戦になるだろう。それこそ原爆が再び使われてもおかしくない。原子力エネルギーでは事故があった時のリスクが大きすぎる。事故の可能性がごく僅かだとしても、その事故がもたらす被害が国レベルに拡がるなら、選択できない。いわゆる代替自然エネルギーでは得られる出力が到底需要に呼応するまでには達しない。そもそも人間が使用するエネルギーが多すぎるのではなかろうか。触れるのはタブーかもしれないが、地球が 70 億もの人口を支えきれない現実を、人道的な方法で考慮すべき時代が来ているのかもしれない・・・こんなことは決して考えたくもないのだが。

とりとめもなく思いついたことを書き連ねた駄文にも (ここまで付き合ってくれた奇特な人のために) まとめが必要だと思っているのだが、原爆に始まり、それが招いた 60 年超の反省の歴史、そして新たな惨事によってもたらされた原子力そのものに対する見方を考えた。結局は、今の技術では制御するのには未熟すぎると言ってしまえばそうなのかもしれないが、エネルギーの問題は避けて通れない。人々がもたらす問題というのは、複雑につながりながら大きくなるばかりなのだろうか。なんとも口惜しいものである。